北野高校生の真実

自分が北野高校に入った時に最も衝撃を受け、絶望したのは、「みんな普通の人」ということだった。自分は持てる全ての時間を勉強という1つのものにベットして戦って勝ち得た勝利だったが、彼らはある程度の努力で得た勝利であるように思えてならなかった。

その時に自分は才能というものの理不尽さに打ちのめされてしまった。

その後、さらに努力最上主義で突き進んで、結局大学受験には落ちてしまうが、そこでその強迫観念からは解放され、精神的に自由になれた。

 

その後、7年ほど時が経った2023年の年末。

久々に高校の人たちに会えるのをとても楽しみにしていた。自分が当時全く才能で太刀打ちできないと感じた北野高校の同期たちがどれだけ社会人として活躍しているのか、とても気になっていたからだった。

 

結果的に、その期待は割と大きく外れた。

前提として、理系の人が多く、まだ2年目の人も多かったというのが大きかったのかもしれないが、就職先を聞いていくと、ある程度大手の子会社の工場で働いているという人がかなり多かった。言い方を選ばず言ってしまうと、

「そんな大したことなかった」。

もっとすごい海外の大学へ行ったとか、キーエンスソフトバンクなどの日本を世界に押し出していくような企業でこれからやっていくぞ!という人が多いのではないかと思っていたが、そんなことはなかった。

意外と就活で苦労した人も多そうな印象を受けた。

自分は北野高校、神戸大学出身というブランドを意図的に全面に押し出さず、敢えてはみ出していこうとしながら歩んできた大学、社会人生活ではたくさんの面白いことを経験できたが、結果的にその方が魅力的な人間になれていたようだと感じた。

 

詰まるところ、結局北野高校生とは、「勉強ができるだけの普通の人たちの集まり」なのだ。

自分が当時衝撃を受けて、絶望していた点が今ようやく巡り巡って回帰した。

結局、北野高校に集まるのは、数ある様々な能力の中で、たまたま勉強というパラメータが平均以上に高かった人たちということで、それ以外はその辺にいる人たちと何ら変わりはない。

(地頭が良いというのはもちろんあるが)

大学へ行った後、社会人になった後、そしてそれらの家庭において自分の人生をどう捉えるか、自分の思考をどう高めるかなどによって、結局学力なんて数ある要素の一つの要素でしかないと改めて思った。

北野高校の人たちと会話をして、意外とこの中の多数が社会の歯車の中でいいように使われて搾取されていくんだろうなというのを直感で感じ取った。

おそらく現実はそういうことなのだろう。

 

ようやく自分の絶望から始まった北野高校生との物語に終止符が打たれたようだ。

おそらく自分は彼らに魅力を今後感じることはあまりないだろう。

榎や八軒という友達が得られた場所ということが着地点。それで良い。